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2022/10/06 12:26

 今日は巣鴨餃子の誕生秘話をお話します。元々小さな中華料理店の名物であった巣鴨餃子をなぜ日本全国に届ける決断に至ったのか。そこには、私を陰で支え、応援してくださった人達の愛情がありました。

   ときは2020年に遡ります。中国・武漢で発生した新型コロナウイルスの影響は、見る見るうちに日本でも出始めて、そしてついにその影響は私が経営している飲食店とホテルにも出始めました。期待していた予約は全てキャンセルされ、ホテルを救う手はありませんでした。そこで全力で清緑園を救おうと考えました。来店者数が減り、1日の売上も激減しました。飲み物のクーポンを作ったり、次回の来店を促すクーポンを発行したり、自ら出前を配達したり、できるだけのことをやって、売上への影響を遅らせようとしました。もちろん、スタッフとお客様にとって安心できるような働く環境や食事環境を提供するのにも相当神経を使いました。

   その中、ある日、閉店後レジの締め作業が終わった時に、レジ台の下にあるタバコが私の目に入りました。普段全然タバコは吸わないのですが、その時なぜかタバコを吸いたくて仕方はなく、ついにはタバコに手を伸ばしました。タバコっていいなと思った瞬間でした(笑)。その時の様子は今もスマホに保存されています。もちろん、その後タバコを吸うことはありませんでした。

    2020年4月10日緊急事態宣言が発出され、小池知事の記者会見を見てついに私は4月11日付けで1ヶ月間の臨時休業の決断をしました。

    危機は転機、転機は勝機。私にとっての転機はここから始まりました。その転機をもたらしてくれたのは大学院時代の指導教官である馬場錬成先生でした。

    馬場先生は清緑園の水餃子とナスの塩胡椒炒めがお好みのようで、清緑園にくるたびにこれらを注文頂きました。そしていつも私に「日本で水餃子を広めていくべきだ」とおっしゃっていました。新型コロナウイルスが影響し始めた頃、私のことを心配してくれて何回も仲間や友人を連れて応援にいらして頂きました。

  店舗休業している間、馬場先生と何度もLINEでやり取りし、巣鴨餃子通販事業の可能性について話し合いました。そして、いざやろうと決めてから、その後の動きが速かったです。馬場先生は21世紀構想研究会事務局長の峯島朋子さんや管理栄養士の江副貴子さんを巻き込んで巣鴨餃子通販事業のプロジェクトチームを作り、販売戦略まで考えてくれて当時流行り始めたZOOM会議システムで色々話し合いました。初期段階の巣鴨餃子のターゲット設定、栄養成分の分析、調理方法や食べ方、配送方法、同梱物の内容、地方年配者への対応方法など、ほとんどこのプロジェクトチームメンバーで話し合いながら決めました。

  

(馬場先生が考えてくれた巣鴨餃子の販売戦略メモ)

(巣鴨餃子のプロジェクトチームメンバーのZOOM会議)

(峯島さんが自ら調理し、家庭での調理方法や食べ方を共有してくれました)

(当時香川栄養女子大学で勉強中の江副先生がケーキを作って励ましにきました)

    そして、無名な巣鴨餃子をまず知ってもらおうと、プロジェクトチームメンバーが各自の家族や友人、知り合いに自費で巣鴨餃子を送り、食べてもらいました。更に、そのご家族や友人達も自分の家族や友人、知り合いに巣鴨餃子を紹介し、どんどんその輪が広がっていきました。巣鴨餃子の通販事業を立ち上げてからの数ヶ月間、このように皆に応援していただいて少しずつ形になりました。

(2022.10.01 21世紀構想研究会シンポジウムにて 久しぶりの再会)

   私は巣鴨餃子を美味しく作るのは当たり前と考えます。最も重視しているのは、その商品に愛情を込めてお届けすることです。どんなに自慢の商品にも人間味はなければ、長くお客様に支持されないと思います。私を助けてくれた人たちの愛情があるからこそ、その愛情をより多くの人にお届けしたいと思います。皆に笑顔になってもらいたいです。

<追記>

メルマガを発信した後、馬場先生からなぜ水餃子を勧めたか、その体験談を寄稿していただきました。以下、馬場錬成先生の寄稿内容です。

   なぜ水餃子を勧めたか。馬場錬成の体験談でした。

  2000年から中国は爆発的な産業革命の時代に入りました。その産業現場と特許に代表される知的財産戦略を取材するため、馬場先生は中国に頻繁に渡航していました。

 北京で定宿にしているホテルの隣に水餃子専門レストランがあり、滞在中は毎日通いました。牛・豚・羊・鳥の肉類と多種類の野菜類をとり合わせた水餃子が50種類ほどあり、試しに全部食べてみましたが、どれもこれもおいしい。すっかり水餃子にはまってしまいました。

 日本は焼き餃子が主ですが、北京では水餃子が主でした。日本ではたまたま焼き餃子が普及しただけで、水餃子の本当の味を知らないだけと考えた馬場先生は、帰国してすぐに東京にいる中国人の知人たちを集めて、水餃子専門レストランを東京に開店しようと持ち掛けました。材料の仕入れから水餃子餡の作成、販売まで考えましたが、様々な課題が出てきました。北京で食べていた水餃子と同じような味が出ない。餃子の皮も問題でした。あの皮と中の餡が程よくかみ合ってこそおいしい水餃子ができる。いろいろ研究していうち難しい課題を乗り越えることができず断念してしまったのでした。

 しかし日本人は、焼き餃子よりも水餃子に魅力を感じるという馬場先生の信念は変わらず、それを信じて巣鴨水餃子を開発することにしました。